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同窓会報 第十一号 同窓会の一層の繁栄を願って 関東城岳同窓会監査 那覇高8期 福永 忠彦 沖縄にも『結縄』があった! 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[1] 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[2] 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[3] 文責:那覇高8期 真栄田 修 ☆☆☆母校便り☆☆☆☆☆☆同窓会が運営する人材育成事業☆☆☆ 同窓会報 第十号 故郷と私 関東城岳同窓会会長 山路 安清 NHK「こんにちは いっと6けん」放映に寄せて 那覇高8期 長嶺 紀晃 米占領軍に戦後を託された男(1) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(2) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(3) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(4) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 文責:那覇高8期 真栄田 修 『県立二中・那覇高等学校創立百周年記念式典』に参加しましょう☆☆☆母校便り☆☆☆ 同窓会報 第九号 島唄・城岳旅行会 島唄同好会世話役 那覇高8期 長嶺 紀晃 能ある鷹は爪隠す・・二中29期・北村紀雄君のこと(城岳同窓会懇親会記念誌より) 紹介文:二中29期 小宮 永史 <校史探訪>裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[1]「定時制」那覇高校の誕生 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[2]“学び”に飢えた勤労学徒 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[3]定時制ならではの学園風景 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[4]社会の偏見と闘って 文責:那覇高8期 真栄田 修 級友を偲ぶ 那覇高16期 儀間 真勇同窓会報 第八号 公開講座:就職支援『就活塾』について 那覇高21期 岩崎 りり子 <校史探訪> 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [1]迫り来る戦争の足音 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [2]二中鉄血勤皇隊、金武に集結 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [3]二中通信隊、南部戦線で散る 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [4]戦い済んで… 文責:那覇高8期 真栄田 修 沖縄戦余話 死を覚悟に敢然と赴任した官選最後の沖縄県知事<島田 叡>同窓会報 第七号 早稲田大学 「琉球・沖縄研究所」創設について 那覇高19期 勝方(稲福) 惠子 校史探訪 ~那覇高野球部・創部から夢の甲子園まで~ 『関東城岳同窓会のホームページ』の活性化 関東城岳HP事務局 岩崎 りり子 同窓会報 第六号 表紙 45年遅れの卒業証書 二中31期 池之上 光夫 「イキイキ6期生」 那高6期 名城 潔(弁護士) 特集座談会 二中の番外史を語る 貴方も「ウチナーグチ」に挑戦して見ませんか 編集後記 同窓会報 第五号 『慰霊祭に参列して』 ニ中34期 山路 安清(会長) 座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る ホームページ開設のお知らせ 『沖縄の海で学んだ「魚や貝の毒化の不思議」』 東北大学名誉教授 安元 健 会員の活動状況 編集後記 同窓会報 第四号 『昭和初期の二中点描』 ニ中20期 国場 公徳 特集 母校「那覇高等学校」の草創期を支えた人々 『6期生が造った校舎』 那覇高6期 名城 潔 同窓会・会員活動状況 編集後記 同窓会報 第三号 『セピア色に残された17歳』 那覇高19期 勝方 恵子 『茅葺校舎とキューバ危機』 那覇高16期 花井 玲子 県立第二中学校の歴史を辿る 同窓会報 第二号 『還暦記念誌「龍翔」を発行して』 那覇高12期 重田 辰弥 『「おきなわ女性の会」と私』 那覇高13期 盛田 道子 『私のニ中時代(遺稿)』 ニ中28期 丹下 勲 『城岳同窓会(本部)の懇親会に出席して』 那覇高2期 亀島 博(副会長) 『同好会発足について』 ニ中31期 池之上 光夫 『親ぬ訓話や肝に染みり』 那覇高10期 中山 侑義 会員の活動状況 編集後記 同窓会報 創刊号 『会報創刊にあたって』 ニ中34期 山路 安清(会長) 『想い出』 ニ中24期 上原 建作 同窓会の一層の繁栄を願って 関東城岳同窓会監査 福永忠彦(那覇高8期) 同窓会の繁栄と存続はひとえに参加者の増加にあります。 私が関東城岳同窓会の役員として関わりを持つようになって、常に課題となっているのは、いかに出席者を増やしていくかということです。 特に若い世代の同窓生に来てもらうには、魅力ある会合にしなければ、と幹部会では会場の選択、プログラムの内容、お料理の選定等々、頭を悩ませます。 会員の勧誘には直接攻撃のほか手はありません。10年以上も前のことですが、或る期のパーティーが開かれると言う噂を聞きつけると会長のお供で出掛けて行って売り込みに成功したこともあり、また、他の会合、那覇会や県人会で同窓生らしき人にアプローチして獲得したこともあります。しかし、幸運に恵まれないとなかなか難しいものです。 20期以降の皆様、年に一度の同窓会に出席して校歌を歌いませんか。これからも首都圏に住む若い皆様に働きかけ一人でも多く参加者が増えればと言うのが切なる願いです。 沖縄にも『結縄』があった! 皆さん『結縄(けつじょう)』とは何のことかご存知でずか。広辞苑によると籍羅とは「太古、文字のなかった時代に縄の結び方でいろいろな意味を表し、お互いに意思を通じ、物事の記憶に役立てた。エジプト、中国、チベット、インカ、太平洋地域で人口統計、租税の記録等にも用いられ、このうちペルー、沖縄には近代まで存在した」とあります。世界的に有名な古代ペルーの結縄は「キープ」と呼ばれますが、沖縄のそれは藁算(ばらざん)と言われており昭和初期まで民具として伝承されていました。 この藁算を紹介する「沖縄の結縄展」が去る6月、杉並区にある女子美術大学付属高等学校・中学校で開催されました。沖縄の貴重な文化財である藁算を多くの人に知ってもらいたいと校長・継岡リツ先生が企画されました。 藁算の主な用途は収穫算、領収算、金銭算、戸数算などですが、結び目で会話も出来たと伝えられています。沖縄で藁算が盛んになったのは1637年の人頭税制度が導入されてからだといわれています(「琉球における算術の研究」琉大、金城松榮、小田切忠人)が、その藁算の存在が一般に紹介されたのは1885年(明治18年)植物学者の田代安定が単身、八重山諸島の博物調査をする過程で発見し「沖縄結縄考」として発刊したのが始まりでした。当時、人頭税に苦しんでいた文字や数字による記録を知らない百姓たちが役人の不正にごまかされないよう、いわゆる“生きる知恵”として生み出したものが藁算だったと、「沖縄結縄考」の著者、田代安定は指摘しています。 一般に藁算が廃れたのは人頭税が廃止になったからと言われていますが実際は教育の普及が原因だったといえましょう。 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~ 二中廃校の危機に際しては職を賭して当局に立ち向かい、校長を辞した後は県会議員となって二中の那覇移転実現に文字通り命を賭けた初代校長・高良隣徳先生。“教育”に沖縄の未来を託し、その為に渾身の努力を惜しまなかった先生の足跡を辿り、その偉大なる功績に対する感謝と敬慕の証として、この拙文を捧げます。 *本校は新沖縄の記念物である 沖縄県立第二中学校の前身である「沖縄県立中学校・分校」が首里城北殿で狐々の声を上げたのは今から100年前の1910年(明治43年)のことです。 前年の明治42年は沖縄県に初めて他府県並みの県制が施行された年であり、その記念すべき第一回通常県議会(1909年11月)に提出された「中学校分校設置計画」に基づいて設立されたのが「沖縄県立中学校・分校」であります。 当時は名護に県立農学校、首里に県立中学校があったので、県会は当初から明治44年度には中頭郡内に本格的な校舎を建築し、首里城内に開校した「沖縄中学分校」を首里城内から中頭郡に移転するよう建議していました。 文部省告示により明治44年1月には県立中学校を沖縄県立第一中学校と改称し、同時に分校を「沖縄県立第二中学校」と命名、初代校長には分校長の高良隣徳先生が任命されました。高良校長は1872年(明治5年)、小禄村に生まれ沖縄師範、東京高等師範(現筑波大)卒業、滋賀県尋常師範学校教諭等を経て1899年(明治32年)沖縄県立中学校に転任されました。 県立第二中学校長になった高良先生は生徒に対して「本校は沖縄県に自治制が布かれた新沖縄の記念物である。故に本校の生徒は将来新沖縄の代表者を以て任ずる覚悟がなくてはならぬ、その責任は重かつ大なり」(『沖縄県政五十年』太田朝敷著)と常に訓戒したといいます。 1910(明治43)年3月に実施された第1回の入学試験は100名の募集に対し志願者557名という順風満帆の船出でした。 新しい中学校の敷地が中頭郡内ということは県会が当初で決定していたことでもあり、問題はありませんでしたが具体的な位置となると、首里・那覇から通学可能な浦添村の安謝橋付近というのが大方の教育関係者の予想でした。 しかし時間の経過とともに第二中学校は中頭郡の中央部にとの声が高まります。 驚いた高良校長は県当局や各地域の有力者に対し条理を尽くして安謝橋付近の正当性を訴えまずが、選定の段階になると政治的な駆け引きが介入し北谷村嘉手納に決定してしまいました。 この決定を聴くや、高良校長はすぐに反対運動に立ち上がります。辞表を懐に県首脳に対し、嘉手納の不適なることを執拗に訴え続けます。しかし、決定は覆ることなく、1912年(明治45年)4月、二中は首里城内の仮校舎から新築なった嘉手納に移転することになりました。 *打ち寄せる悲運と高良校長の辞職 嘉手納への移転は二中にとって決定的な打撃となり、悲運が次々と襲い掛かります。 その第1は、応募者の激減です。557名であった1年目の受験生が2年目には418名、3年目は257名となり、4年目の1913年(大正2年)嘉手納での最初の受験者はたったの105名となったのです。 第2は、中途退学者が急増したことです。1915年(大正4年)の第1回卒業生は入学時の100名が30人に減り、2期生は100人が13人、3期生は97人が28人、4期生は84人が19人という惨憺たる状況を呈します。 高良校長の危惧した事態が不幸にして的中したのです。 校長は受験生勧誘のために教職員の先頭に立って全県下を駆けずり回らなければなりませんでした。 厳しい状況が続く中で、激務と心労のため出張先の国頭で遂に病に倒れます。医師からは厳しい診断が下されました。 遠い国頭郡本部の病床から高良校長は生徒に対し「予は病躯を押して常娥平(※)を越え今本部にいる。発熱甚だしく、或は再び諸君に会えぬかも知れぬ。諸子は予の衷情を察し、奮励努力校名を辱しむる笏れ」(創立25周年記念誌)と悲痛なる電報を発信しています。 (※)常娥平(じょうがひら)とは名護から本部にいたる街道(ほぼ現在の県道244号線、常娥道、門川道とも言う)にある嶮しい坂道で旅人を悩ました険路として有名、大正中期までは名護・本部間の主要道路だったといわれています。(本部町史) 敷地の選定など県当局の教育行政に対する強い不信と失望、更には襲い来る病への不安、心身ともに疲労困憊の高良校長は大正4年6月とうとう依願退職します。後任は大木俊九郎教諭が校長事務取り扱に任命されました。 *廃校問題に高良前校長立ち上がる 高良校長退職2ヵ月後の1915年(大正4年)8月、突如、県当局に「中等学校整理案」なる計画があり、その中身は「二中の廃校と農学校の整理」との噂がひろがります。 二中廃校の理由と整理の中身は (1)二中は中途退学者が多く発展の見込みがない (2)県財政救済の一環として二中を廃校処分とする (3)郡立(組合立)の中頭農学校と島尻農学校を廃止し、国頭(名護)の県立農学校を嘉手納の二中跡に移す (4)二中を廃校とする代りに一中を拡充する、等々でありました。 激昂した高良前校長は憤然として「廃校阻止」運動を展開します。「二中不可廃諭」なる小冊子を作成して県当局の暴挙を批判し、その事を世論に訴えます。 その諭点は (1)各県の入口に対する中学校の数を全国平均で見ると173,000余人に1校の比率であるが、わが県は267,000人に1校の割合、仮に3校にしても178,000余人で、尚全国平均を下回っている。中学校はまだ不足であって廃止などもってのほかである。 (2)沖縄県の社会は上流と下流に二極分化しているのが現状で、特に郡部の教育水準は極端に低い状態にある。県の改革、発展のためには中流階層の構築が急務である。各字(村)に数名の中学卒業生が必要である。そのためにも第二中学校の廃止は到底是認出来ない。 そして、小冊子は「教育は本県の未来である。我々は現在にその苦しい思いをして、望み多き未来を有したいのである」という言葉で結ばれています。 高良前校長の勇気ある行動が呼び水になり連日生徒大会、父兄大会、有志大会が開かれます。一方、新聞も味方し、反対の論陣を展開します。 琉球新報(以下、新報と表記)は、「前知事日比重明氏が平身低頭して文部大臣に二中設立を乞い、許可後2~3年して又当局者がこれを破壊するとは何の顔あって後年二中設立を乞う事が出来ようか」(大正4年9月2日)と当局者の再考を促しています。 高良前校長は各地の反対集会に馳せ参じて、「二中廃止不可」の諭陣を張ります。9月5日の中頭郡民大会では300余名の参加者を前に2時間余にわたって熱弁を揮います。 その様子を新聞は「二中前校長高良隣徳氏は先に印刷せし二中不可廃論を敷衍し二中廃止の不可を熱叫し、更に該問題に対する県会議員の大多数は廃止に反対の意向にて吾人に切実なる同情を寄せ居れば我々の運動は必勝なりと報告して拍手を浴びせられ、尚、氏は論鋒を転じて大味知事の政策を攻撃し、知事は時世後れの政治家にして且つ本県を全く植民地扱いせんとしつつあり」(新報、9月7日)と先生の獅子奮迅の活躍をつぶさに伝えています。 *廃止諭消えて併置論浮上す 圧倒的な世諭の反対に会い、県当局は二中の廃校案は引っ込めますが、一転して“二中の縮小と中農併置”を「中学校整理案」に盛り込み、1915年(大正4年)9月11日の県議会に上程しました。 その内容は (1)二中の定員400名を250名に減じ、代わりに一中の定員600名を800名に増加する (2)農学校については島尻、中頭の組合立(群立)を廃止して県立1校にまとめる。そして定員200名を300名に増加し、名護から嘉手納の二中の構内に移す、と言うもので、いわゆる「中農併置案」の登場でした。 廃校の危機は脱したものの、「生徒の定員及び教諭の削減」その上「中農併置」という二中にとって屈辱的なこの「整理案」は到底受入れ難いものでした。 二中間題が討議される県議会の当日(9月20日)、高良前校長は定刻の2時間も前から傍聴席に陣取り、議会の成り行きを注視していました。 しかし、「中学校整理案」は紛糾するどころか、ほとんど議諭らしい議諭もなく当局原案のまま通過してしまいます。 当局案に対する各郡の議員の意見は以下の通りでした。 島尻都は、二中を那覇に移転し、農学校を嘉手納に移した後、時機を見て国頭に中学の分校を設立する、という“中農分離説”。 中頭郡は農学校を名護から嘉手納に移し、二中もそのまま嘉手納に残すという“中農併置説”。 一方、どうしても中学校を誘致したい国頭郡は当初、島尻案に賛同する構えでしたが、それを見た中頭郡が急遽「早い時期に国頭に中学の分校を設立する」という条項を付加した為、国頭が島尻案から中頭案に乗り換えてしまいます。 蓋を開けてみると大味知事の個別切り崩しに会い、結局全会一致で可決されたのです。 二中の敷地が嘉手納に決定したとき同様、純粋に教育的見地からの議論はほとんどなされず、政治的駆引きと地域エゴが優先される結果となりました。
*中農併置で爆発した二中生の怒り
あれほど全県下の注目を集めた「中学校整理案」でしたが大きな波乱もなく県議会を通過し、翌1916年(大正5年)4月より 「中農併置」が実現することになりました。 校長には沖縄県の事情に疎い山梨県立都留中学校長寺尾熊三が沖縄県立農学校長兼第二中学校長として赴任して来ました。 新学期を迎え、いざ中農併置がスタートすると二中にとって耐え難い事態が続発します。同一敷地内に二つの学校が存在するという単純なものではありませんでした。 創立25周年記念誌は「かくて二中は廃校の悲運を免れたが昔日の面影なく、農学校に庇を貸して母屋をとられた形となり、専任の校長を置かれずして農学校より兼務の校長を戴き、その他職員も多数農学校より兼務せしため授業意の如くならず、二中の職員生徒は孤城落日の感に打たれた」と憤懣やる方ない思いを吐露しています。 削減された二中の教諭の替わりを農学校教諭が兼務したのですが、地歴の先生が国漢を教え、図画の先生が地理を受持つという酷いものだったと言います。 当時3年生だった松田昌嘉氏(5期)は創立55周年記念誌に「広かったグラウンドは見る間に開墾され農場に変わった。歯ぎしりした私たちは夜中に寄宿舎を抜け出て開墾したこの畑を靴で散々踏みならし、石で固めて元のグラウンドにした。翌日は農学校側が固めたグラウンドをまた掘り返して農場にした。開墾と地ならしのシーソーゲームだった」と述懐しています。 中学校と農学校とでは教育目的、学科、訓練の仕方など異質な面が多く、些細なことから感情的もつれが起きることは予想されたことで、両校生徒の間には、すでに一触即発の危機が迫っていました。 果たせるかな、中農併置から1ヶ月後の1916年(大正5年)5月12日、二中の全校生徒が農学校の寄宿舎を襲撃するという事件が勃発します。 *ストライキの勃発とその背景 襲撃の直接の原因は特定できませんが、中農併置以来の農校生に対する憤懣が蓄積されていたこと、加えて、これまで寺尾校長に対し舎監を通じて4月上旬と5月5日の2度に亘り要望書を提出、その改善を請願したにも拘らず、その都度、体よくあしらわれたことが二中生にとって、校長は権力側であり、最早当てには出来ない、斯くなる上は実力行使に訴えるほか問題解決の道は無いとの思いに追い込まれていたのです。 4月上旬の校長に対する最初の要望は、農校生が「煙草を吸う」「俗歌を唄う」「土足で寮に入る」「下着姿で食堂にくる」など、ほとんどが規律に関するものでした。 これに対する校長の答えは「諸君の満足行く解決はすぐには無理だが、漸次農校生の習慣及び風紀を正すように極力意を尽くすから、事を荒立てないでくれ」と言うものでした。 問題改善に具体的な動きの無いのを見た二中生の要望は次第に問題の根幹にふれるもの、つまり「中農分離」の方向に傾斜していきます。そして5月5日、再び校長に要望書を突きっけます。 その要望事項は ①農校生徒と炊事を別にする、同時に寮の会計も別々にする ②二中生の寮室を広くする、そのために農具置き場に使用している寮室を二中生に開放する ③農学校兼務の教諭を廃し、専任教諭を当てる、と言うものです。 ①の背景には、中農併置以前は寮の残飯を売却して月約7円の収入があり、その積立金が80円余になっていたのが、農学校と炊事を共同にしてからは、その残飯収入がなくなったのです。それは農校生が二中生より大食漢で残飯が出なくなったからで、同額の食費を払っている二中生にとっては大きな不満でした。 ②の寮の部屋を広くすること、とは、これまで寮の10畳の部屋32室を二中が独占していましたが、農学校との併置でその中の20室(内4室が農具置場、1室は舎監室)を農学校に明け渡したため、二中生が使用できるのは12室に減り、しかも1室当たりの人数は農学校の3~4人に対し二中は5人、それでは狭すぎで勉強が出来ない故、農具置場に使用している部屋を返してもらいたい、と言うものです。 *騒乱を誘発した校長の対応 これに対する寺尾校長の答えは「農具室の件は追々適当の方法を講ずべきも、その他の希望条件に就いては今の所容認あたする能わず」(琉球新報、5月18日)と冷たいものでした。 校長の態度に業を煮やした寮生は9名の室長を代表に選び「中農併置」についての校長の意見を直接糺さんものと校長室を訪れたのが暴動の起きた5月12日のことでした。 丁度そこに、二中生に不穏な動きがあるとの情執を得て県学務課の渡辺視学官が駆けつけ、校長と二人で生徒代表の説得にかかりますが、彼等は聞き入れません。校長の返事次第では退学をも辞さずと全二中生が校庭で待機しているからです。 校長は「併置の是非にかかわる問題は二校の根本の間題であるから、今騒ぐのは徒労である。今しばらく時機を待て」と明確な回答をさけ、引き伸ばしにかかります。 渡辺視学官は「校長も既に適当の方法を講じていると言っているのだから、生徒である君達は大人しく引下るのが筋ではないか」との高圧的態度に生徒が激昂し全く収拾がっきません。 延々と続く校長室の談判に我慢できず、校庭で待機していた二中生が校長室の9名の代表を引き上げさせ、農学校の寄宿舎を襲撃、硝子窓や机などを壊し、一部の農校生を襲うという暴挙に出ます。 暴動が収まったのは渡辺視学官が「中農併置問題に関する二中生の意見(分離論)を新任の鈴木知事に伝える」ことを約束した午後11時過ぎのことでした。 これが所謂、二中ストライキ事件、直接の原因でした。 *全寮生、荷物を纏めて帰郷す 5月15日の新報は「二中騒擾事件」と題する社説で二中生の心情を的確に言い当てています。 「尤も二中生より見れば、この学校は自家の創設したる学校なり、校内の一木一草にも愛着の念を注ぎ、職員生徒こころを合わせて外観内容の完成を期したるならん。然かも昨秋に至りて突然一大動揺を余儀なくせられ、爾来、校長去り、同輩減じ、校舎と寄宿舎は農学校に割かれ、主客殆ど転倒の状を呈するに至りては青年の活気尋常の忍耐を以て忍ぶ能はざるものあらん」(5月15日)と。 二中生の暴発に対し一部には批判の声も上がりますが、これに対しても新報は5月16日の社説で「種々の点において或は農学校が主にして二中がこれに寄生せる観なきか、理屈を言えば如何様にも申訳は立つべけれども生徒の脳底に潜める不満の感情は到底百の理屈、千の条理を以てするも之を緩和するの道はなかるべし」と、県当局の重農軽中の政策が紛争の最大原因であることを指摘しています。 就任間もない寺尾校長は事の成り行きに動転し、父兄会に対して生徒の説得を要請します。父兄会は収拾策として ①「専任教諭」を配置し満足できる教育をする ②臨時の県議会の開催を促し「中農分離」についての検討を要請する ③当事件に関する生徒の処分は行わない ④父兄は、登校ずるよう生徒を説得する 等を決め、①~③については校長に善処するよう要請し、父兄は生徒の説得を約束しました。 騒乱の発生と同時に両校生徒は荷物をまとめて寄宿舎を引き上げたため、学校は自然休校の形に襟っていたからです。 *突如罷免された大味知事 一部の父兄はこれだけでは治まらず更に以下のような質問状を校長に突きつけます。 ①大味知事が3月下旬、落第の可能性のある生徒に対し「農学校への転校を受け入れれば及第証明を与える」とし、その勧誘を青木教頭にさせたというのは事実か。 ②寺尾校長が沖縄赴任の途中、文部省で見た「沖縄県が提出した設計図と現実とが異なっている」と言うのは事実か。(提出書類には同一校舎、同一寄宿舎は使用しないと明記していたと言う)。 何故、大味知事はこのような無謀とも言える「中農併置」を実行したのか判然としませんが、前掲の『沖縄県攻五十年』は「当時誇大妄想狂といわれた大味知事の、県の実情を無視した独断的の植民地政策を夢想した結果たるに過ぎない」と厳しく批判しています。 大味知事は中農併置がスタートした直後の大正5年4月28日突如、罷免されます。彼の無鉄砲ぶりがよほど目に余る ものだったからだと言われています。 二中生の騒乱は大味知事更迭直後に起きました。問題の種をまいた張本人は既に去り、事情を知らない新しい知事の赴任がこの間題を一層、混乱させたのです。 *勢い増す中農分離論とストの終息 ストライキを契機に世上では「中農分離諭」が俄かに勢いを増すことになります。 新報も5月15日のコラム欄で中農問題を取り上げ「当局はどう始末をつけるか。鈴木知事新任早々の難題で誠にお気の毒だが、仕方ない。しかし、これが始末は極めて簡単なもので中農を分離するか、どちらか一方を潰すか、の二つに一つだ。ところが、今の情勢上、中学を減ずると言うのは決して許さない。そうかと言って一つしかない農学校も廃する訳にいかないとあれば、残るは分離間題だが、中学をそのままにして、農学校を移すか、農学校を嘉手納において中学を移すか。県の経済上より言えば農学校を移すのが至当だし、中学志望者の状況より考えれば中学校を移すのが利益だ」と問題の要点を的確に指摘しています。 これまで高良前校長や父兄会が訴え続けてきた「分離」こそが、紛糾した中農問題を解決する鍵であるという認識が一般にも浸透していきます。 学校(寺尾校長)と県当局は終始二中生に厳しい態度で臨みます。5月20日学校と県当局が出した収拾案は ①二中の全生徒を5日間の停学処分とし5月25日より授業を開始する ②二中生は農校生に謝罪する ③中農分離間題は父兄会が県当局と県会に働きかける、従って、この間題は父兄に任せて生徒は学業に専念せよ、と言うものです。 二中生はその条件を受け入れ5月12日以降休校中だった学校は農学校が20日より、二中は5日間停学のため25日より授業が再開されることになりました。
*再び起きたストライキとその原因
しかし、学園の平穏は一月と続きませんでした。 6月25日には再び問題が起きます。夜9時50分頃、二中の寄宿舎に何者かが投石すると言う事件が発生したのです。二中生が農校生だと騒ぎ出したのを舎監が鎮めようと努めますが、激昂した生徒は納得せず校長宅にまで押しかけたのです。そこで学校は26日、室長17名に退舎を命じ、27目には主謀者と目される9名に無期停学を命じました。 9名の無期停学処分を不服とした二中生は彼らが復学するまではと同盟休校を決議し、再びストライキに突入します。これが第二次ストライキ事件の発端でした。 第二次ストライキの直接の原因は投石事件ですが、その背景には「中農分離間題」の継続審議を約束した県当局や県議会がお互い責任の擦り合いをするばかりで、生徒や父兄の要望に真剣に取り組む姿勢が見えなかったからです。 県議会側は「中農併置問題」は元来、県庁が議会に上程したものであり、これに議会が協賛したまでの話で、責任はあくまでも県当局にある。だから、対応策を県当局が策定し議会に提案すれば、議会はそれに協賛するまでの話だと言い、県当局は「中農併置」は県当局が上程したとはいえ議会が議決した事案であり、県当局としては、別に分離案を提出する必要は認めない。必要であれば県議会が議案を上程して審議すればよい、と全く平行線をたどります。 一方、鈴木知事は着任早々で事情が良く分らないと言うこともありますが、前任者の施策を掌返すように扱うのには聊か抵抗があり動きづらい云々、と三者三様、お互い面子に拘り、三竦み状態のまま解決の目途が全く立たない事への苛立ちが第二次騒乱事件の本当の原因でした。 8月下旬、校長は父兄に対し「生徒が非を悔改め、今後、学園内の平和を乱さないと約束するなら特に停学処分を解除するから来る9月10日に生徒同伴で登校するよう」通告を出します。 ところが、父兄会は中農分離間題が何の進展もない「現状のままで強いて登校させると将来再び騒乱を起こす可能性がる。善後策がまとまるまで登校を見合わせことにする」と登校拒否の回答を学校(校長)に送り、「善後策」の模索に取り掛かります。新聞は「今や二中は父兄のストライキに逢えるの観を呈するに至れり」(新報9月6日)と揶揄したほどでした。 学校当局は同盟休校で帰静した生徒のうち病気や休学中で騒乱事件に参加しなかった15人を除く198人全員を無期停学処分とし、県当局は二中を臨時休校という名目で閉鎖していました。 *事態収拾についての議論高まる 新報は9月6日 「二中の善後策」と題する社説で、父兄が子弟を説得するどころか、一緒になって分離論を主張する事態に至った今日、いたずらに解決を引き延ばすのは得策ではないと述べ、目先の救済策として先ず校長と教諭を専任にし、寄宿舎を完全に分離し、当分の間は嘉手納での分離運営を提案したあとに 「尤も上述の如き応急手当なるものは一種の彌縫策に過ぎずして単にこれを以て本間題の解決を根本的に円満ならしむることは無諭不可能の事に属すれど、現に逆境に陥りつつ、且つ永遠に取り返す可からざる多大なる損失を蒙らんとする230余の生徒を救う上より考うれば、たとえ一時的にせよその効果決して小なりと言う可からず」と応急措置の重要性を強調しています。 こうした世論の後押しを受け父兄会の活動も活発になります。1916年(大正5年)9月17日、奥武山で父兄会主催の有志大会を開催し以下のことを決議します。「将来の分離が前提であるが、応急措置として、校長および教諭を専任とする、更に寄宿舎を独立して、会計も別にする」という、「妥協案」をまとめ、その足で父兄代表が県庁を訪れ当間題の責任者である島内内務部長に面会を求め、上記の案を12月の通常県会に上程するよう要請します。内務部長からは「この案で纏めるべく早速、県議会や学校(長)と話し合う」との約束を取り付け、父兄側は子弟を速やかに登校させることを約束しました。 泥沼状態のストライキ事件もこれで1件落着と安堵し、学校からの連絡を待ったのですが、一向に通知が届きません。原因は父兄の一人が勝手に父兄代表を自称し、校長に面会を求めて、①兼任の校長と教諭を廃止し、専任とする、②寄宿舎を分離する、の二点を父兄会と県当局で決定したので、しかるべく手続きを願いたい、と申し入れていたことが判明しました。 校長が「私は県当局から未だ何の相談にも預かっていない。これまでの経緯から見て簡単に登校通知を出すことは考えられない」と態度を硬化させたのです。問題解決までになお3週間もの時間を要することになりました。 紆余曲折を経て10月9日、全員停学処分を解かれ6ヶ月に及んだストライキも漸く解決に至りました。 大味知事が去った後、県との関係がギクシャクした寺尾熊三校長はIO月5日依願退職し、10日には帰郷の途につきます。僅か7ヶ月の在職でした。 後任は県の学務課長川部佑吉が校長事務取扱を命じられ、翌1917年(大正6年)4月からは一中教諭清水駿太郎が二中の専任校長となったのでした。 *前校長県議会で完全分離訴える 高良前校長は大正5年6月の県会議員の島尻郡補欠選挙に立侯補して見事当選を果たしますが「その転身が実は志喜屋先生の嘆願と説得が動機だった」と“写真が語る88年”は伝えています。 県会議員となった高良前校長は12月の通常県議会で早速、県当局に質間の矢を放ちます。「当局は大正7年度より中農を分離する意思があるのか」と糾し、返す刀で中農併置の不合難について約50分にわたる演説を行います。 12月5日の新報に掲載された高良議員の発言内容は「中農学校紛擾については当時の県会議長及び議員等も少なからず憂慮し、嘗て議員等は集会をなして善後策を講ぜしことありと雖も何ら纏らず、新知事赴任後に至りて父兄及び有志の意見を建議せしも遂に不得要領に了れり。果然(予想通り)二度目の紛擾となり10月9日まで休校の巳むなきに至れり。しかも予は生徒にのみ同情せず、生徒の本分を忘れし者は断固たる処置を執るべきなるも、鈴木知事が中農問題に対する演説の極めて判然せざりし為、予は私に迷い居るなり。されば茲に所信を述べて判然たる返答を求めたし」と、これまでの県当局、県議会を痛烈に批判し、中農併置が教育上不合理であることを詳細に説いたのです。 その様子を「流石に多年教育界に携わりし入だけに其の説くところ一々事実を根拠として少しの駄弁を交えず、よく長時間の演説に聴衆を議かしめざりき」と熱弁振りを紹介しています。 *那覇移転案・遂に可決される 5ケ月に亘るストライキも嘉手納における中農分離で一先ず収束しましたが、究極の解決策である完全分離に向けて高良前校長の活動はなお続きます。 先生は「一県の首都でありながら中学校が一校もないとは、決して文化都市とは言えない」と那覇の有力なオピニオンリーダーや主だった県会議員に二中の那覇移転に賛同するよう強力に働きかけます。その一方で生徒とも共同作戦を展開し多数派工作を着々と進めて行ったのです。 事件当時、最上級生で無期停学処分にもなった幸地新松さん(3期)は先生に励まされながら有力者の署名をもらいに奔走したことを創立55周年記念誌に披露しています。 県当局も中農併置の弊害と二中の位置の不適切であることを認め1917年(大正6年)12月の通常県会に「中農分離と二中の那覇移転案」を提出します。結果は15対13の僅差での可決でした。 この「二中那覇移転案」が可決された県議会の議長が高良前校長だったという事実に我々は運命的な感動を覚えずには居れません。 2年後の1919年(大正8年)3月、新校舎の一部落成と同時に念願の那覇市郊外の城岳山麓への移転が実現します。高良隣徳前校長は二中の移転を見届け、安心したかのように1月後の4月24日、47歳の若さで黄泉の国に旅立たれました。文字通り二中に捧げた生涯だったと言えましょう。 (文責:那高8期、真栄田修) <参考資料> 「琉球新報記事(大正4~5年)」 「創立25周年記念誌」創立55周年記念誌 「写真が語る88年“城岳”」 「沖縄県政五十年」太田朝敷著 「近代沖縄の歩み・歴史編」琉球新報社編 ☆☆☆母校便り☆☆☆ 今年の卒業生(482名63期)は昨年の実績とほぼ同等の成績を収め、多くの生徒が国公立大学現役合格を果たしている。100周年記念事業での人材育成事業の取り組みや、進路部を中心とした指導体制が整いつつあることが功を奏していると考えられる。 <大学合格> ※現役合格率 74.4% 国公立大学 78名(県内:68名) 私立大学 244名(県内:157名) 短期大学 16名(県内:12名) 専門学校 92名(県内:73名) 文部省管轄外大学校 4名 国外大学 1名 その他 6名(高校専攻科等) <就職状況> ※就職率 100% 県内 3名 県外 2名 ☆☆☆同窓会が運営する人材育成事業☆☆☆ 城岳同窓会では、在校生の国際感覚を養う教育事業を支援する海外留学制度を設けています、毎年1名1年間の留学をサポートしています。 平成22年皮の受給者は 伊良皆潤さん(3年)(アメリカ留学) <A氏奨学金制度> 平成19年12月に、ある同窓生から1億円の奨学金寄付の申し込みがあり、理事会において奨学金規定を定め平成21年3月より募集を開始した。その方の希望により名前を公表せず匿名を表す「A氏」を冠するものとなった。 *奨学金は一人当たり、県内は月額20,000円(年額240,000円) 県外は月額40,000円(年額480,000円) *給与期間は、奨学金を受けて1年とする。 *奨学生の人数は、予算の範囲内で決める。(3~4名) 平成22年度の受給者は上原千恵さん(日本大学芸術学部放送学科) 金城裕司さん(沖縄国際大学総合文化学部英米言語文化學科)
島唄同好会が活動を開始して、早や6年が経ちました。
五反田の“結いま一る”を会場に沖縄式ランチフルコース付の“大いに語り、かつ歌う集い”として定着し、奇数月の第2目曜日に例会を開催しています。 回を追う毎に会員の親睦も深まり、今や昔の大家族的雰囲気の会にまとまりつつあります。 二中のパワフルなシニア達は、「定例の3時間では物足りない、たまには大家族を一晩続けたい」との熱い想いを表明されておりました。その思いに背中を押され、爺ちゃん孝行にと、5月の11,12日に熱海旅行を企画・実施しました。 “大家族的集い”は沖縄の門中とご理解ください。“個”が益々顕著になり、企業でも、地域でも“共同”や“集団”としての一体感が失われつつある今日です。島唄・城岳旅行会で暫し“門中”の絆を取り戻してみませんか。 今後、旅行会を年に一回開催したいと思っています。“結いま一る”での例会を含め、皆様の参加を歓迎します。
能ある鷹は爪隠す・・二中29期・北村紀雄君のこと
「ノリオ!お前は遊んでばかりいると思ったのに…実力があるんだなー」。戦前全県下中学生対象の模擬試験で成績上位5名の中に見事に入った北村紀雄君に向けた2期先輩の感嘆の叫び声である。同期の私の回想でも、紀雄君は学内で休み時間にきまって校庭の隅の塀を乗り越えてあん餅を買い求め、塀内で待ち受ける悪友どもにポンと投げ渡し共々にうまそうに食べながら談笑していた光景が思い浮かぶ。 戦前生徒達は買い食いとか、一人で映画館に入るとか、町廻い(マチマー)とかは厳に禁じられており、それに反する行動は不良のイメージが強かった。 紀雄君は品行方正のガリ勉タイプには程遠い感じであり、むしろ同期生の柔道の猛者共の稽古台を買って出るなど男同士の肌と肌の触れ合いを通じて多くの友人との絆を深め、時には他校との小競り含いで先頭に立つなど果敢な少年だったのである。 同期の私が紀雄君の生い立ちを知ったのは、ずっと後のことである。 彼は1932年(昭和7年)、母や兄と共に先に単身赴任していた父の下に兵庫県北部の日高町から沖縄へ渡ったとのこと。彼が7歳の時になるが、尊父秀一様(戦前、沖縄農事試験場長、東大・農卒)と尊母栞様(旧東京女高師、現お茶の水女子大卒)共々子供の教育に熱心であった。当時最も優れた小学校と定評があった甲辰小学校に行かせるべく、官舎に入らず、わざわざ近くの借家へ入ったという孟母の教えを実践に移された。 昭和10年前後から、甲辰→二中は秀才コースといわれ、先生に「二中は無理だ」と言われた者が一中に行ったものだと大先輩の白慢話が伝えられている。 二中に進学した彼は生意気(ナマチャー)の中学生を演じていたが、実は密かに本を詠みすぎる程の勉強家だったのである。その為、近眼になって、憧れていた海兵を断念し当時難関校といわれた海軍経理学校へ沖縄から初めて入る実力ぶりを発揮した。彼の話によれば、二中時代に柔道や町廻いで鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳等激しい訓練も何のそのだったようだ。 しかし、残念ながら敗戦によって多くの若者の夢が途絶したのであるが、彼は向学の志もだし難く東京商科大学(現一橋大)に入り直して勉学一途に励んだ。卒後の彼は日銀検査役、山種証券専務等を歴任、着実に人生を歩んできた。 二中29期生は今や82歳の高齢となっているが、沖縄の各界各層で活躍した者、更に活躍中の者など多くの優れた人材が輩出し、また本士在住でも紀雄君のように現に公認会計士の業務に携わり、矍鑠(かくしゃく)としている者もいる事は関東城岳同窓会の誇りとするところである。 「能ある鷹は爪隠す」は、ウチナーでは“隠れ武士小(ブシグァー)”とも言った。昔、佐賀藩で武土の心構えを説いたといわれる「葉隠」にならったものであろうか。北村紀雄君のイメージにピッタリという感がする。 (紹介文:二中29期・小宮永史) 【北村紀雄、二中29期】 大正15年生。昭和18年二中卒業後、海軍経理学校、東京商科大学(現一橋大)で学び、昭和50年日本銀行福島支店長、52年同検査役、59年山種証券専務取締役、平成7年公認会計士、税理士。 < 前のページ次のページ >
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