|
||||
このたびの東北地方太平洋沖地震により被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。皆様の安全と1日も早い復旧を心からお祈り申し上げます。What's New ★島唄同好会からのご報告 希望に満ちた新春第一回の集いが、去る1月8日(日)に開催されました。 ★創立百周年記念誌『城岳讃歌』発行のお知らせ 会員の皆様のご協力のもと、この度、無事発行することが出来ました。是非ご一読頂きたいものと考えています。 Pick Up News ★幹事会が開催されました (2011年9月21日) 総会に向けての最終準備打合せ。 ★喜屋武 靖 監督の映画オンエア情報 (2011年7月8日) 2004年劇場公開された若槻千夏さん主演の映画「想色~オモイ・ノ・イロ~」 ★記念誌『城岳讃歌』発行についてのお願い (2011年4月4日) 関東城岳同窓会では、母校の創立100周年と、関東城岳同窓会の60周年を祝して、記念誌『城岳讃歌』の発行を企画しました。 ★関東城岳同窓会会報 (2011年3月1日) 最新号「第11号」を掲載しました。 次号「第12号」は母校の創立百周年を祝して記念号とします。お楽しみに。 書籍紹介 ★『おきなわ職活塾』 “挫折”は、飛躍へのスプリングボード!たとえ第二志望でもいい。 HPスタッフ募集中!! ★サイト管理に興味のある方、お気軽に問い合わせ下さい! # by k-jogaku | 2012-12-31 23:59
![]() 昨年は国内もまた海外も「想定外」の激変の事態が起きましたが、今年は明るい平和の年でありますよう祈っています。 さて、私たちの島唄同好会は希望に満ちた新春第一回の集いが、去る1月8日(日)に五反田の「結まーる」で開かれました。 まず、島唄ランチから始まる。今回は新年にふさわしいメニューである。 ターンムの煮付、 ターンムディエンガク またアーサのおすまし、 それに赤飯と盛り沢山!! オリオンビールと泡盛も並んでいます。 ご馳走の後には、お正月のおめでたい日にふさわしい 祝儀舞踊「かじゃでぃ風」、「鷲ぬ鳥節」 竹内栄子さん(16期) 五ノ坪すえ子さん(19期) お二人の華麗な舞踊に一同うっとりと見入っていました。 緊張したひと時の後は賑やかな合唱と懇談が始まりました。 ![]() この様に城岳の島唄会は、 1.評判の島唄ランチ 2.賑やかな島唄と踊り 3.楽しい懇談(ムヌガタイ) と、三拍子そろっています。まだ参加されていない方は是非一度 「体験入会」して見てください。メンバー一同お待ちしています。 (那覇高2期 亀島 博)
関東城岳同窓会では今春来、会員の皆様のご協力のもとに母校の創立百周年と関東城岳同窓会設立60周年を祝して、記念誌『城岳讃歌』の発行に取組んできましたが、この度、無事発行することが出来ました。これも偏に会員の皆様の熱いご支援の賜物と記念事業実行委員一同心より感謝すると共にお礼を申し上げます。
記念誌『城岳讃歌』の内容は、第一部・「関東城岳同窓会の歩み」、第二部「思い出の記」、第三部「校史探訪・語り継ぎたい物語」の三部構成になっており、B5版、234ページの立派な記念誌に仕上がりました。同窓会員の皆様には総会案内とともに「記念誌発行のお知らせ」と「500円で頒布」する旨をお知らせしましたが、未だ記念誌の発行をご存知ない方々にも是非ご一読頂きたいものと考えています。 事務局には在庫がありますので記念誌『城岳讃歌』をご希望の方は、関東城岳同窓会の「郵便振込口座(口座番号:00160-1-550895)」宛に「記念誌購入代金」と通信欄に明記の上、お振込頂ければ、入金が確認出来次第、「着払い」でお届けいたします。(同窓会の財政逼迫の折ですので、着払いの件、ご了解ください) 二中・那覇高 百周年記念事業実行委員会・2011,11,吉日
未だ残暑厳しい9月18日、会長以下各期幹事19名の出席の下、何時もの大崎コープで幹事会が開催されました。
今回の議題は来る11月12日に開催される総会に向けての最終準備打合せ。 事務局長から関東城岳同窓会発足・100周年記念誌「城岳賛歌」発行募金が目標の150万達成が報告ありました。 とは言え,50万円を越える山路会長・旧制中の協賛寄金がある一方、那覇高・若い世代の30期以降は協賛寄付0が続く格差。ここでも若い世代の参加勧誘の課題が浮き彫りになっています。 今期は会長、事務局長はじめ役員の改選期とあり、総会提議の新体制を廻り侃侃諤諤、議論の結果、執行部体制継承案の落着を見ました。新体制は来る11月12日に行われる総会で審議、提案されます。 大勢の皆様の参加をお待ちしています。 ![]()
35期卒業の映画監督喜屋武靖(沖縄県那覇市出身)の
2004年劇場公開された若槻千夏さん主演の映画「想色~オモイ・ノ・イロ~」が 今月のスカイパーフェクTVの709ch「エキサイティンググランプリ」で 7月の間、放送されることになりました。 人気アイドルの若槻千夏さんのほか、人気グラビアアイドルの太田千晶さん、岩佐真悠子さん、元シブガキ隊の布川敏和さん、男闘呼組の前田耕陽 さんと、ヤングアダルトスターが出演してます。 小田原の観光スポットがさりげなく登場する神奈川ムービーで、青春時代の真ん中で揺れる乙女3人が「あじさい電車」に乗って旅に出る場面はファンに人気のシーンで、公開当時は地元観光協会等がご当地ムービーとして紹介したり、喜屋武監督をご存じの方には想像がつかない「女の子はいつでも傷つきやすくて、可愛く大人になっていく♪」映画で、原作も喜屋武監督が書いたということで、人は見かけによりません(笑) 喜屋武監督は那覇高校在学時代に映画研究会の会長さんをなさっていたそうです。 だしか12組だったということをおっしゃっていました。 スカパーにご加入の同期の先輩方、同期の喜屋武監督の作品をどうぞ、ぜひご覧になってみてください! 那覇高出身者、先輩方の35期生からアカデミー賞監督が誕生するよう応援をお願い申し上げます。 ◆喜屋武靖監督のウィキぺディア ◆放送時間 2011/07/02 17:00 2011/07/05 11:00 2011/07/09 08:15 2011/07/11 21:30 2011/07/14 11:00 2011/07/16 05:30 2011/07/18 21:30 2011/07/21 19:45 2011/07/24 11:00 2011/07/31 15:45 ◆「想色~オモイ・ノ・イロ~」あらすじ 杏奈(若槻千夏)は、有名スタイリストの母親にコンプレックスを抱き、ある過去の出来事にやり場のない苛立ちを憶えながら、夜の喧騒で心の隙間を埋める。祐香(太田千晶)は憧れだったスタイリストの職につくが、カメラマンとの恋愛に苦しみ、自分のやりたい事とは、ほど遠い雑用に追われる毎日。亜紀(岩佐真悠子)は小さな編集プロダクションでバイトをするが、約束を断ってまで集めた資料も、企画倒れを繰り替えしてばかり…。そんなある日、祐香が倒れ病院に運ばれる。そこで久々に顔を合わせた3人には、あの頃の輝きはなかった。それぞれが直面した厳しい現実。慣れない新生活の中で、唯一信じられるはずの関係に微妙な距離が生じてしまったことに気づく3人…。 ◆出演者 若槻千夏 太田千晶 岩佐真悠子 川村亜紀 布川敏和 前田耕陽 ◆作品詳細ページ ◆エキサイティング・グランプリとは・・・ デジタルCS放送「スカイパーフェクTV!」(709CH)、「ケーブルテレビ足立」、「ケイキャット」(関西地区のCATV)などで視聴できる有料放送(月480円)です。 ~母校の創立100周年と関東城岳同窓会の60周年を祝って~ 昨年(2010年)は、我々の母校(県立第二中学校・県立那覇高等学校)が首里城北殿で誕生して、ちょうど百年の記念の年でした。 一方、関東城岳同窓会も1950年(昭和25)、故郷の情報を求めて有志によって立ち上げられて以来、60年を迎えたところであります。 この機に関東城岳同窓会でも、母校の創立100周年と、関東城岳同窓会の60周年を祝して、下記のように、記念誌『城岳讃歌』の発行を企画しました。 つきましては、卒業生の皆様に記念誌への「寄稿」と、制作費の財源のための「寄付」について、ご協力を賜りたく、ご案内申し上げます。是非ともご検討いただき、この記念事業にご参加くださいますよう、衷心よりお願い申し上げます。 皆様ご自身の記念のためにも、文章の寄稿と名刺広告(5,000円)か、もしくは賛助金(3,000円)にご協力くださいますよう、切に願っております。 同期の幹事のから名刺広告や賛助金の依頼や記念誌への寄稿の依頼がありました折には、是非ご協力のほどお願い申し上げます。 2011年3月吉日 関東城岳同窓会 会 長 山路 安清(二中・34期、旧姓・徳田) 副 会 長 真栄田 修(記念誌編集責任者/那覇高・8期) 監 事 福永 忠彦(募金活動責任者/那覇高・8期) 事務局長 比嘉 良智(那覇高・13期) 1.記念誌『城岳讃歌』制作のための寄付のお願い ①名刺広告(縦組み、横組み) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5,000円 掲載の必須項目は、氏名・卒業期。それ以外は各自の自由とします。 ②賛助金 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3,000円 ③企業広告:1頁の4分の1(縦50ミリ×横140ミリ) ・・・・・・・・・・・ 10,000円 1頁の2分の1(縦100ミリ×横150ミリ) ・・・・・・・・・・ 20,000円 1頁 (縦205ミリ×横150ミリ) ・・・・・・・・・・ 40,000円 表3・表4 (縦205ミリ×横150ミリ) ・・・・・・・・・・ 50,000円 ④目標額:150万円 ⑤発行部数:2,000部 2.記念誌『城岳讃歌』の内容について ①体裁:B5判並製 総120頁(予定) ②内容:第一部 関東城岳同窓会の歩み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (15頁) 第二部 母校・恩師・先輩・朋友の思い出など(寄稿で構成) ・・・ (55頁) 第三部 母校百年・語り継ぎたい物語(会報より抜粋) ・・・・・・・・・ (35頁) 広告頁 企業広告&名刺広告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (15頁) ③発行時期:2011年10月中旬 ④頒価:500円 3.記念誌『城岳讃歌』への寄稿のお願い ①テーマ:自由 母校にまつわる話題であれば自由です。例えば同窓会で出会った先輩や旧友、または恩師や部活動・部活仲間などについての思い出など。 ②原稿枚数: 800字以内(1人1頁のレイアウトのため) どうしても800字に収まりそうにない場合は1600字まで認めますが、調整は編集部に一任とさせていただきます。 なお、思い出の写真などありましたら、簡単な説明文とともに添付してください(写真スペース等の調整も編集部でいたしますので、ご了承ください)。 ③原稿締切:2011年4月30日厳守 同窓会報 第十一号 同窓会の一層の繁栄を願って 関東城岳同窓会監査 那覇高8期 福永 忠彦 沖縄にも『結縄』があった! 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[1] 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[2] 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~[3] 文責:那覇高8期 真栄田 修 ☆☆☆母校便り☆☆☆☆☆☆同窓会が運営する人材育成事業☆☆☆ 同窓会報 第十号 故郷と私 関東城岳同窓会会長 山路 安清 NHK「こんにちは いっと6けん」放映に寄せて 那覇高8期 長嶺 紀晃 米占領軍に戦後を託された男(1) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(2) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(3) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 米占領軍に戦後を託された男(4) ・・・「沖縄民政府」初代知事・志喜屋 孝信 文責:那覇高8期 真栄田 修 『県立二中・那覇高等学校創立百周年記念式典』に参加しましょう☆☆☆母校便り☆☆☆ 同窓会報 第九号 島唄・城岳旅行会 島唄同好会世話役 那覇高8期 長嶺 紀晃 能ある鷹は爪隠す・・二中29期・北村紀雄君のこと(城岳同窓会懇親会記念誌より) 紹介文:二中29期 小宮 永史 <校史探訪>裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[1]「定時制」那覇高校の誕生 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[2]“学び”に飢えた勤労学徒 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[3]定時制ならではの学園風景 裸電球に賭けた青春 ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・[4]社会の偏見と闘って 文責:那覇高8期 真栄田 修 級友を偲ぶ 那覇高16期 儀間 真勇同窓会報 第八号 公開講座:就職支援『就活塾』について 那覇高21期 岩崎 りり子 <校史探訪> 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [1]迫り来る戦争の足音 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [2]二中鉄血勤皇隊、金武に集結 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [3]二中通信隊、南部戦線で散る 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊” [4]戦い済んで… 文責:那覇高8期 真栄田 修 沖縄戦余話 死を覚悟に敢然と赴任した官選最後の沖縄県知事<島田 叡>同窓会報 第七号 早稲田大学 「琉球・沖縄研究所」創設について 那覇高19期 勝方(稲福) 惠子 校史探訪 ~那覇高野球部・創部から夢の甲子園まで~ 『関東城岳同窓会のホームページ』の活性化 関東城岳HP事務局 岩崎 りり子 同窓会報 第六号 表紙 45年遅れの卒業証書 二中31期 池之上 光夫 「イキイキ6期生」 那高6期 名城 潔(弁護士) 特集座談会 二中の番外史を語る 貴方も「ウチナーグチ」に挑戦して見ませんか 編集後記 同窓会報 第五号 『慰霊祭に参列して』 ニ中34期 山路 安清(会長) 座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る ホームページ開設のお知らせ 『沖縄の海で学んだ「魚や貝の毒化の不思議」』 東北大学名誉教授 安元 健 会員の活動状況 編集後記 同窓会報 第四号 『昭和初期の二中点描』 ニ中20期 国場 公徳 特集 母校「那覇高等学校」の草創期を支えた人々 『6期生が造った校舎』 那覇高6期 名城 潔 同窓会・会員活動状況 編集後記 同窓会報 第三号 『セピア色に残された17歳』 那覇高19期 勝方 恵子 『茅葺校舎とキューバ危機』 那覇高16期 花井 玲子 県立第二中学校の歴史を辿る 同窓会報 第二号 『還暦記念誌「龍翔」を発行して』 那覇高12期 重田 辰弥 『「おきなわ女性の会」と私』 那覇高13期 盛田 道子 『私のニ中時代(遺稿)』 ニ中28期 丹下 勲 『城岳同窓会(本部)の懇親会に出席して』 那覇高2期 亀島 博(副会長) 『同好会発足について』 ニ中31期 池之上 光夫 『親ぬ訓話や肝に染みり』 那覇高10期 中山 侑義 会員の活動状況 編集後記 同窓会報 創刊号 『会報創刊にあたって』 ニ中34期 山路 安清(会長) 『想い出』 ニ中24期 上原 建作 同窓会の一層の繁栄を願って 関東城岳同窓会監査 福永忠彦(那覇高8期) 同窓会の繁栄と存続はひとえに参加者の増加にあります。 私が関東城岳同窓会の役員として関わりを持つようになって、常に課題となっているのは、いかに出席者を増やしていくかということです。 特に若い世代の同窓生に来てもらうには、魅力ある会合にしなければ、と幹部会では会場の選択、プログラムの内容、お料理の選定等々、頭を悩ませます。 会員の勧誘には直接攻撃のほか手はありません。10年以上も前のことですが、或る期のパーティーが開かれると言う噂を聞きつけると会長のお供で出掛けて行って売り込みに成功したこともあり、また、他の会合、那覇会や県人会で同窓生らしき人にアプローチして獲得したこともあります。しかし、幸運に恵まれないとなかなか難しいものです。 20期以降の皆様、年に一度の同窓会に出席して校歌を歌いませんか。これからも首都圏に住む若い皆様に働きかけ一人でも多く参加者が増えればと言うのが切なる願いです。 沖縄にも『結縄』があった! 皆さん『結縄(けつじょう)』とは何のことかご存知でずか。広辞苑によると籍羅とは「太古、文字のなかった時代に縄の結び方でいろいろな意味を表し、お互いに意思を通じ、物事の記憶に役立てた。エジプト、中国、チベット、インカ、太平洋地域で人口統計、租税の記録等にも用いられ、このうちペルー、沖縄には近代まで存在した」とあります。世界的に有名な古代ペルーの結縄は「キープ」と呼ばれますが、沖縄のそれは藁算(ばらざん)と言われており昭和初期まで民具として伝承されていました。 この藁算を紹介する「沖縄の結縄展」が去る6月、杉並区にある女子美術大学付属高等学校・中学校で開催されました。沖縄の貴重な文化財である藁算を多くの人に知ってもらいたいと校長・継岡リツ先生が企画されました。 藁算の主な用途は収穫算、領収算、金銭算、戸数算などですが、結び目で会話も出来たと伝えられています。沖縄で藁算が盛んになったのは1637年の人頭税制度が導入されてからだといわれています(「琉球における算術の研究」琉大、金城松榮、小田切忠人)が、その藁算の存在が一般に紹介されたのは1885年(明治18年)植物学者の田代安定が単身、八重山諸島の博物調査をする過程で発見し「沖縄結縄考」として発刊したのが始まりでした。当時、人頭税に苦しんでいた文字や数字による記録を知らない百姓たちが役人の不正にごまかされないよう、いわゆる“生きる知恵”として生み出したものが藁算だったと、「沖縄結縄考」の著者、田代安定は指摘しています。 一般に藁算が廃れたのは人頭税が廃止になったからと言われていますが実際は教育の普及が原因だったといえましょう。 初代校長高良隣徳先生とストライキ事件 ~母校百年の礎を築いた人々~ 二中廃校の危機に際しては職を賭して当局に立ち向かい、校長を辞した後は県会議員となって二中の那覇移転実現に文字通り命を賭けた初代校長・高良隣徳先生。“教育”に沖縄の未来を託し、その為に渾身の努力を惜しまなかった先生の足跡を辿り、その偉大なる功績に対する感謝と敬慕の証として、この拙文を捧げます。 *本校は新沖縄の記念物である 沖縄県立第二中学校の前身である「沖縄県立中学校・分校」が首里城北殿で狐々の声を上げたのは今から100年前の1910年(明治43年)のことです。 前年の明治42年は沖縄県に初めて他府県並みの県制が施行された年であり、その記念すべき第一回通常県議会(1909年11月)に提出された「中学校分校設置計画」に基づいて設立されたのが「沖縄県立中学校・分校」であります。 当時は名護に県立農学校、首里に県立中学校があったので、県会は当初から明治44年度には中頭郡内に本格的な校舎を建築し、首里城内に開校した「沖縄中学分校」を首里城内から中頭郡に移転するよう建議していました。 文部省告示により明治44年1月には県立中学校を沖縄県立第一中学校と改称し、同時に分校を「沖縄県立第二中学校」と命名、初代校長には分校長の高良隣徳先生が任命されました。高良校長は1872年(明治5年)、小禄村に生まれ沖縄師範、東京高等師範(現筑波大)卒業、滋賀県尋常師範学校教諭等を経て1899年(明治32年)沖縄県立中学校に転任されました。 県立第二中学校長になった高良先生は生徒に対して「本校は沖縄県に自治制が布かれた新沖縄の記念物である。故に本校の生徒は将来新沖縄の代表者を以て任ずる覚悟がなくてはならぬ、その責任は重かつ大なり」(『沖縄県政五十年』太田朝敷著)と常に訓戒したといいます。 1910(明治43)年3月に実施された第1回の入学試験は100名の募集に対し志願者557名という順風満帆の船出でした。 新しい中学校の敷地が中頭郡内ということは県会が当初で決定していたことでもあり、問題はありませんでしたが具体的な位置となると、首里・那覇から通学可能な浦添村の安謝橋付近というのが大方の教育関係者の予想でした。 しかし時間の経過とともに第二中学校は中頭郡の中央部にとの声が高まります。 驚いた高良校長は県当局や各地域の有力者に対し条理を尽くして安謝橋付近の正当性を訴えまずが、選定の段階になると政治的な駆け引きが介入し北谷村嘉手納に決定してしまいました。 この決定を聴くや、高良校長はすぐに反対運動に立ち上がります。辞表を懐に県首脳に対し、嘉手納の不適なることを執拗に訴え続けます。しかし、決定は覆ることなく、1912年(明治45年)4月、二中は首里城内の仮校舎から新築なった嘉手納に移転することになりました。 *打ち寄せる悲運と高良校長の辞職 嘉手納への移転は二中にとって決定的な打撃となり、悲運が次々と襲い掛かります。 その第1は、応募者の激減です。557名であった1年目の受験生が2年目には418名、3年目は257名となり、4年目の1913年(大正2年)嘉手納での最初の受験者はたったの105名となったのです。 第2は、中途退学者が急増したことです。1915年(大正4年)の第1回卒業生は入学時の100名が30人に減り、2期生は100人が13人、3期生は97人が28人、4期生は84人が19人という惨憺たる状況を呈します。 高良校長の危惧した事態が不幸にして的中したのです。 校長は受験生勧誘のために教職員の先頭に立って全県下を駆けずり回らなければなりませんでした。 厳しい状況が続く中で、激務と心労のため出張先の国頭で遂に病に倒れます。医師からは厳しい診断が下されました。 遠い国頭郡本部の病床から高良校長は生徒に対し「予は病躯を押して常娥平(※)を越え今本部にいる。発熱甚だしく、或は再び諸君に会えぬかも知れぬ。諸子は予の衷情を察し、奮励努力校名を辱しむる笏れ」(創立25周年記念誌)と悲痛なる電報を発信しています。 (※)常娥平(じょうがひら)とは名護から本部にいたる街道(ほぼ現在の県道244号線、常娥道、門川道とも言う)にある嶮しい坂道で旅人を悩ました険路として有名、大正中期までは名護・本部間の主要道路だったといわれています。(本部町史) 敷地の選定など県当局の教育行政に対する強い不信と失望、更には襲い来る病への不安、心身ともに疲労困憊の高良校長は大正4年6月とうとう依願退職します。後任は大木俊九郎教諭が校長事務取り扱に任命されました。 *廃校問題に高良前校長立ち上がる 高良校長退職2ヵ月後の1915年(大正4年)8月、突如、県当局に「中等学校整理案」なる計画があり、その中身は「二中の廃校と農学校の整理」との噂がひろがります。 二中廃校の理由と整理の中身は (1)二中は中途退学者が多く発展の見込みがない (2)県財政救済の一環として二中を廃校処分とする (3)郡立(組合立)の中頭農学校と島尻農学校を廃止し、国頭(名護)の県立農学校を嘉手納の二中跡に移す (4)二中を廃校とする代りに一中を拡充する、等々でありました。 激昂した高良前校長は憤然として「廃校阻止」運動を展開します。「二中不可廃諭」なる小冊子を作成して県当局の暴挙を批判し、その事を世論に訴えます。 その諭点は (1)各県の入口に対する中学校の数を全国平均で見ると173,000余人に1校の比率であるが、わが県は267,000人に1校の割合、仮に3校にしても178,000余人で、尚全国平均を下回っている。中学校はまだ不足であって廃止などもってのほかである。 (2)沖縄県の社会は上流と下流に二極分化しているのが現状で、特に郡部の教育水準は極端に低い状態にある。県の改革、発展のためには中流階層の構築が急務である。各字(村)に数名の中学卒業生が必要である。そのためにも第二中学校の廃止は到底是認出来ない。 そして、小冊子は「教育は本県の未来である。我々は現在にその苦しい思いをして、望み多き未来を有したいのである」という言葉で結ばれています。 高良前校長の勇気ある行動が呼び水になり連日生徒大会、父兄大会、有志大会が開かれます。一方、新聞も味方し、反対の論陣を展開します。 琉球新報(以下、新報と表記)は、「前知事日比重明氏が平身低頭して文部大臣に二中設立を乞い、許可後2~3年して又当局者がこれを破壊するとは何の顔あって後年二中設立を乞う事が出来ようか」(大正4年9月2日)と当局者の再考を促しています。 高良前校長は各地の反対集会に馳せ参じて、「二中廃止不可」の諭陣を張ります。9月5日の中頭郡民大会では300余名の参加者を前に2時間余にわたって熱弁を揮います。 その様子を新聞は「二中前校長高良隣徳氏は先に印刷せし二中不可廃論を敷衍し二中廃止の不可を熱叫し、更に該問題に対する県会議員の大多数は廃止に反対の意向にて吾人に切実なる同情を寄せ居れば我々の運動は必勝なりと報告して拍手を浴びせられ、尚、氏は論鋒を転じて大味知事の政策を攻撃し、知事は時世後れの政治家にして且つ本県を全く植民地扱いせんとしつつあり」(新報、9月7日)と先生の獅子奮迅の活躍をつぶさに伝えています。 *廃止諭消えて併置論浮上す 圧倒的な世諭の反対に会い、県当局は二中の廃校案は引っ込めますが、一転して“二中の縮小と中農併置”を「中学校整理案」に盛り込み、1915年(大正4年)9月11日の県議会に上程しました。 その内容は (1)二中の定員400名を250名に減じ、代わりに一中の定員600名を800名に増加する (2)農学校については島尻、中頭の組合立(群立)を廃止して県立1校にまとめる。そして定員200名を300名に増加し、名護から嘉手納の二中の構内に移す、と言うもので、いわゆる「中農併置案」の登場でした。 廃校の危機は脱したものの、「生徒の定員及び教諭の削減」その上「中農併置」という二中にとって屈辱的なこの「整理案」は到底受入れ難いものでした。 二中間題が討議される県議会の当日(9月20日)、高良前校長は定刻の2時間も前から傍聴席に陣取り、議会の成り行きを注視していました。 しかし、「中学校整理案」は紛糾するどころか、ほとんど議諭らしい議諭もなく当局原案のまま通過してしまいます。 当局案に対する各郡の議員の意見は以下の通りでした。 島尻都は、二中を那覇に移転し、農学校を嘉手納に移した後、時機を見て国頭に中学の分校を設立する、という“中農分離説”。 中頭郡は農学校を名護から嘉手納に移し、二中もそのまま嘉手納に残すという“中農併置説”。 一方、どうしても中学校を誘致したい国頭郡は当初、島尻案に賛同する構えでしたが、それを見た中頭郡が急遽「早い時期に国頭に中学の分校を設立する」という条項を付加した為、国頭が島尻案から中頭案に乗り換えてしまいます。 蓋を開けてみると大味知事の個別切り崩しに会い、結局全会一致で可決されたのです。 二中の敷地が嘉手納に決定したとき同様、純粋に教育的見地からの議論はほとんどなされず、政治的駆引きと地域エゴが優先される結果となりました。
|